「民泊」という単語、国会初登場は昭和37年8月 東京五輪の宿泊施設不足「民泊でお考えを」 ノーチップ運動の梶本観光局長

1962年(昭和37年)8月24日、参議院のオリンピック準備促進特別委員会で、国会史上初めて「民泊」というキーワードが登場した。「民泊」というキーワードを使ったのは運輸省観光局の梶本保邦局長で、「オリンピック東京大会宿泊対策関係資料」の説明をする場面だった。

梶本局長は、チップを払うわずらわしさからホテル利用者を解放させるために、1964年の東京オリンピックに合わせて提唱した「ノーチップ運動」などで知られる官僚。東京オリンピック直前の1963年に施行された「観光基本法」の立案者でもある。

梶本局長は1962年(昭和37年)8月のオリンピック準備促進特別委員会でまず、東京オリンピック(1964年開催)の前に開催された1952年のヘルシンキ五輪、1956年のメルボルン五輪、1960年のローマ五輪について言及し、オリンピック開催に合わせて観光客が伸びていることに着目。その上、日本初の五輪開催となる東京オリンピック開催前後と将来的な宿泊施設を増やす対策を検討することが重要と指摘している。

梶本局長はまず東京オリンピックにおける宿泊対象地域として、東京都23区内や横浜、逗子、藤沢、大磯、熱海、湯河原、伊東、伊豆長岡、箱根などを想定をしていると明らかにした。その上でこの地域におけるホテル・旅館の部屋数が当時は7,689室(ホテル4966室・旅館2723室)で、必要と想定される3万室には到底足りていない課題があるとした。

梶本局長は不足分について、ホテルの部屋数をこれまでの倍となる10,000室に増加されるほか、旅館の室数やユースホステルのベッド数も増やす必要があるとした。しかし、そのほかに想定される船中泊の分も加えてもまだ足りないとした。

そこで登場したのが「民泊」というキーワード。梶本局長は「先ほど申し上げました友人、知人の宅といった、いわゆる民泊でお考えいただけないものだろうかというふうに考えておるわけでございます」と語った。これは、その年の5月に開かれた国際ロータリー・クラブの東京大会で一定数が知人宅に泊まっていたことなどを勘案し、提案したものだ。

最後に梶本局長は、1964年の東京オリンピック開催時の想定訪日外国人数を目標に設定せず、翌年1964年の訪日外国人が少し減った数字を対象にするべきと指摘。「堅実な、じみちな計算をいたしまして、なおかつこのような数字になって参るわけでございまして、どうしてもやはりわれわれとしては、財政投融資というものをお願いをいたしまして、それによって宿泊施設の万全を期していきたい、かように考えておるわけでございます」と締めくくっている。